花樣方言 北京語と東京語

2016/06/20

蝶中国語が得意な人は、次の発音問題を考えてみましょう。どちらが「普通話」で、どちらが「北京語」でしょうか。避雨(雨宿りをする)①bìyǔ②bèiyǔ、隔壁(お隣)①gébì②jiébì、蝴蝶(ちょう)①húdié②húdie、法国(フランス)①Fǎguó②Fàguó。

答は、①が全て普通話。え?…②なんて、どれも聞いたことない、って?…それは、時代の変化ですね。以前は、普通話というものが実際にはどういうものなのか、詳しい情報がなかなか日本に入ってこなかったので、とりあえず北京の発音を習っておけば問題なかろうと、教師には生粋の北京人が引っ張りだこ、新刊の辞書にも「避雨」=bèiyǔと、「北京の発音」が書かれていたのです。もっとも当時は北京以外の人に「中国語」を習うと、それこそどんな発音を覚えさせられるかわからなかったので、やむをえない選択(?)ではあったのですが。

普通話は決して人工語ではない、という話を以前に書きましたが、こまごまとした部分においては、確かに普通話は「人為的」です。普通話の発音は、「審音」という作業を経て、人為的に決められます。第1回目の審音は1957年の10月で、最後が1985年の12月。80年代になってようやく「普通話」の輪郭がつかめてきて「北京語」との違いがはっきりするようになりますが、なったらなったでこれまた大変。それまでもてはやされていた北京語が一転して冷遇されるようになります。北京語は北京でしか通じないらしいぞ、北京語を覚えてしまったら大変だ、普通話を覚えなければ…というワケ。香港の日本人社会で今も使われている「北京語」という呼称は、かつて「北京語」と「普通話」を特に言い分けていなかった頃の感覚に似ています。普通話も、北京語の一種なのです。そもそも香港の人たちには、北京語という概念がほとんどありません。北京語イコール普通語、些細な違いなど気にしない、という楽観論(?)です。

審音は、bèi→bìという単なる統一作業ではなくて、「逮」(つかまえる)はdǎiだけれども「逮捕」の場合だけはdàibǔというように複数の読み方も認められています。審音によって「逮」から除外されたのはdēiとかděiという、老人しか言ってなかったような発音です。「秘」は、国名の「ペルー」と言う時だけ「秘魯」Bìlǔで、「秘密」mìmìや「便秘」biànmìなどは皆mìと決められましたが、かつて中国人からbiànbìと教わって今もこう言っている年配の日本人はとても多いです(日本語の「べんぴ」に似ているし)。「法」の場合は複数の読み方を認めず全てfǎに一本化。「蝴蝶」の②húdieは、実は普通話を北京語っぽく軽声にしただけの「なんちゃって北京語」で、本物の北京語ならhútiěrと有気音になり、声調も変わって、かつ、そり舌で「R化」します。学校教育の普及などで今後hútiěrのような北京語は更に多くが消えていくものと思われます。(ちなみに「蝶」は、有気音の発音も古くから存在しています。ほかに客家語などが、原因は異なりますがやはり有気音になります。)

北京語と東京語は、成り立ちがよく似ています。一国の共通語になった歴史がとても浅くて、その土台となったもとの言葉はかつては「方言」であり、そして周囲を異なる型の言語に取り囲まれていて、つまり両者とも、新たに都市化された地域に遠方から別の言葉が流れ込んできて混交したことによってできあがったのです。東京語の●○○という頭高型のアクセントは、江戸~東京の中央部に京都から入ってきて以降、次第に使用範囲を周囲へと広げています。東京都教育委員会が公表している『東京都言語地図』の「朝日・命・涙・枕・もみじ・わらび・わさび・火鉢・火箸(9語)総合図」(1986年)という、言語学に縁のない人が見たら何事かと思うような題目の調査報告によると、京都のアクセントで●○○であるこれら9語は、東京では、老年層においては山手線のもうひとまわり外側あたりまでが完全に●○○であるのに対して、この円の外部の地域では従来の西関東型アクセントの○●○が主流となっています。アクセントの地理的分布が本当に見事なドーナッツ状になっていたことが、わかり過ぎるぐらいによくわかります。しかし、若年層を対象としたもう一枚の調査結果では、なんと都のほぼ全域が●○○という状態になっていて、目を見張るようなこの違いに、またいっそう驚かされます。前世紀の後半、「山の手」型アクセントが拡散して、ついに首都圏全域を覆いつくした様子が、実によくわかります。

英語は強弱アクセントなので日本語のような高低アクセントとは質が違いますが、アメリカの現職大統領の名前の英語の発音を日本人が聞いたら大概、オバマ○●○と聞こえるはずです。そんなこととは無関係に、NHKのアナウンサーはもちろん山の手式アクセントで、オバマ●○○と言います。香港にいて英語や広東語のオバマ○●○に慣れてしまうとNHKのオバマ●○○に違和感を覚えるようになりますが、またすぐに順応して、オバマ●○○に抵抗を感じなくなります。

大沢さとし

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