花樣方言 おはよう、ありがとう

2016/06/07

「おはよう」や「ありがとう」に「ございます」を付けると丁寧な言い方になる。外国人にこう教えると、「こんにちはございます」とか「さようならございます」とか言い出したりします。こういった事態を未然に阻止するのもプロの日本語教師には求められてしかるべき素養です。花子とアン

「はよう」や「ありがとう」のような形は「ウ音便」といって、形容詞「早い」「有難い」の連用形であり、「早く」「有難く」と同じです。ウ音便は京都で平安時代から使われてきた長い歴史があり、西日本各地の言葉に広く普及していて、関西では、早うせい、よう寝た、言うてみい、のように日常の俗な会話で普通に出てきます。東京では、書く→書きて→書いて、のようなイ音便、読む→読みて→読んで、のような撥音便、言う→言って、のような促音便、などは盛んですが、ウ音便はもっぱら、うれしゅうございます、あぶのうございます、のように丁寧な表現としてのみ使われてきました。しかしこれも今ではテレビで時代劇か黒柳徹子でも見ない限り、ほとんど聞く機会がなくなっています。

「ウ音便+ございます」の形は、明治の知識人が近代的な日本語を作るにあたって丁寧で品のある言い方として積極的に使ったもので、それ以前の、江戸時代から模範的な話し方とされてきた上方言葉(かみかたことば=京阪の言葉)を引き継いだものです。江戸は、中心部に山の手という、日本中から集まった武士が日本中の言葉を話す地区があって、そのまわりを地元関東の言葉が取り囲むというドーナッツ構造になっていて、山の手では共通語として上方言葉が多く使われ、下町では町人衆が、てやんでえ、べらんめえ、と江戸弁をまくしたてていたのです。NHKの『花子とアン』の「ごきげんよう」のように、ラジオ放送が始まった時も山の手上流社会のウ音便言葉は標準語として多く採用され、昭和の初期まで、長きに渡って東京語の上に君臨してきました。それが今では、「おはよう」「ありがとう」「かろうじて」(からい→からく→かろう)、「全うする」(まったく→まっとう)などわずかな決まり文句だけを辛うじて残してほぼ完全に締め出されてしまったわけで、倒幕から百数十年、徳川家康の侵入から計れば四百年の時を経て、東京語はもとの東言葉(あずまことば)の姿に少しだけ戻ったことになります。ウ音便の言葉は東京語にとって上方言葉からの「外来語」であり、「ございます」(と「存じます」)の前だけに現れる特殊な形だったのです。

しかし、いらっしゃいませ、恐れ入ります、ご無沙汰しております、など、現在も東京で使われている上方系の言葉は、多いなどというものではありません。お早う、お疲れ様、などの「お~」からしてそうなのですが、およそ丁寧語のほとんど全ては上方系といってもいいでしょう。中でも、ありがとう、ごきげんよう、恐れ入ります、などは宮中で使われていた「御所言葉」です(ちなみに京都の町方では、ありがとうは「おおきに」、朝の挨拶は「おはようさん」)。こういった考証をアクセントにまで広げてみると、もっと多くの上方言葉を東京語の中から抽出することができます。

「わさび」のアクセントは関西でも東京でも●○○。しかし「法則」通りならば、関西の●○○は東京式アクセントでは1拍後ろにずれて○●○となるはずです。実際、東京を取り囲む千葉、神奈川、埼玉、群馬、山梨、および、名古屋、岡山、広島、山口などでは○●○です。福岡、北海道、山陰、北陸でも○●○。これらの地域でも東京や関西の影響で●○○と言っている人は多いですが、『現代日本語方言大辞典』(1992年)その他いくつかの資料を見ても、京阪式アクセント圏(徳島や土佐弁などを含む)と東京は●○○でその周囲は○●○、という構図が存在する(した)ものと判断できます。つまり、わさびは本来、京阪式の圏外では○●○であって、のちに東京(江戸)の山の手には上方から●○○が入ってきた、ということです。上方からの外来語や、室町以降にできた新しい言葉が、アクセントの法則から外れるのです。

ただし、わさびだけでなく、京阪の●○○型は東京でも多くが●○○になります。関西●○→東京○●のように2拍語ではきれいに対応するこの関係が3拍語において成立しにくいのは、東京語では○●○という型が極度に敬遠されるから、ではないでしょうか。花屋、おでん、六時…のような複合語や、食べ+る、はや+い、のように分解できる用言でない限り、東京語に○●○は存在しなかった、といっていいかもしれません(だから東京人にマクド○●○と言わせるのは難しいぞと何度も言ってるでしょう)。香港でわさびが○●○なのは、わさびを香港に伝えたのが千葉とか名古屋とか福岡の人だったから、なのでしょうか。表面的な類似だけで言語を安易に結びつけるのは禁物です。もうすぐブラジルでオリンピックなので、日本語の「ありがとう」の起源はポルトガル語のobrigado(オブリガード)だ、などとふれてまわるやからがまた、はびこることと思われます。

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