花樣方言 ローマ字の話

2015/11/10

<ローマ字の話>
香港の広東語には[v]の音がないので、地名・人名の英文表記に「V」の字は現れません。ところがマカオに行くと、「NamVan」(南湾)、「Rua do Volong」(和隆街)、「Man Va」(文華)、「Sanvu」(珊瑚)…、やたらと「V」が目立ちます。姓の「王」「黄」も「Vong」。ポルトガル語では「W」の字を使わないので、というより、[wa(] ワ)、[wi(] ウィ)、[wo(] ウォ)…という発音そのものがないので、香港なら「Wan」「Wong」…となるところを「V~」と書くのです。(ポルトガル語には、au[aw]、iu[iw]、eu[ew]のような逆並びの音列のみ存在します。)
しかしマカオには、新会、台山、開平、恩平など、珠江西側のいわゆる「四邑」と呼ばれる地域からの移住民が多くいます。「台山話」として知られる四邑の言葉では[w]が[v]になります。マカオの「V」は四邑の[v]が表されたもの、と考えることもできるのではないでしょうか。奇遇にも、[w]を[v]と言う人たちの住む地域を、「W」を「V」と書く人たちが治めていたのです。
西儒耳目資アルファベット表記は、マカオの「V」のように、その文字が選ばれたのにはそれなりの理由があります。現行の北京語ピンインでは、そり舌の「ジャ」の音を表す文字が「R」。この「R」は先に、旧ソ連領内でソ連の学者と中国の知識人たちが共同で作った「ラテン化新文字」に「Rh」として登場しています。中国東北地域の発音では、この文字で表される音がかろうじて「ラ行音」に近く聞こえます。旧ソ連領内には中国東北地域の人たちが多く移住していたので、彼らの発音がラテン化新文字の制作者諸氏に「R」という発想を与えた可能性は高いです。吉林省長春出身の俳優、劉燁の映画を見てみましょう。本当にラリルレロのように聞こえるので面白いですよ。しかし標準的な北京語ではやはりジャジジュジェジョに聞こえるので、ラテン化新文字よりおよそ30年早く作られた「ウェード式ローマ字」では「J」であり、また、中国語初のローマ字表記である明朝末期の『西儒耳目資』という文献でも「J」です。400年前の中国語の発音がわかるこの貴重な本を書いたのはイエズス会の宣教師で、フランス語を母語とするニコラ・トリゴー。「儒」を「ju」、「日」を「je」、「肉」を「jo」としています。ピンインではそれぞれ「rú」「rì」「ròu」。日本語漢字音では、「儒」は「ジュ」、「日」は呉音が「ニチ」で漢音が「ジツ」、「肉」も同様に呉音「ニク」と、そしてほとんど使いませんが漢音「ジク」があります。昔の日本人も「ジャ」行音として受け取っているのです。「ホイコーロー」(回鍋肉)や「チンジャオロース」(青椒肉絲)の「ロー」(肉)、また、マージャン用語の「ロン」(栄、róng)などは「外来語」の範疇になるのでしょうが、やはり中国東北地域などの発音が起源ではないでしょうか。ピンインやラテン化新文字のローマ字読みから入ってきた可能性は低いです。ピンインは新しすぎ、ラテン化新文字はマイナーすぎます。
英字新聞には、習近平国家主席の「習」(シー)がピンイン式に「Xi」と書かれています。どうして「シ」の音を表すのに「X」を使うのか、多くの人が疑問に思っているようですが、日本人なら自国の歴史に関する教養として、ぜひ知っておいたほうがいいと思います。最初の日本語ローマ字表記は時期的には中国語とほとんど同じで、同じくイエズス会宣教師たちによって室町~安土桃山時代に数多く書かれた「キリシタン資料」です。「それがし」は「soregaxi」、「獅子」は「xixi」…と書かれています。この「X」は、宣教師たちの言葉ポルトガル語で「シャ」行音を表す文字。日本語もピンインと同じく、「シ」を「xi」と書いていたのです。(そして、「われ」は「vare」です。)
『西儒耳目資』の中にも「X」は出てきます。トリゴーは、「是」「石」「書」など、ピンインなら「sh-」で表される「そり舌のシ」のほうに「x-」を使っています。イギリス人の作ったウェード式では「そり舌のシ」が「sh-」で「普通のシ」が「hs-」。「X」は一旦消えて、20世紀にラテン化新文字で「普通のシ」として復活、ピンインに踏襲されます。現在109歳でご健在であるピンインの作者は日本の東大に留学したことがあるので、もしかしたら日本で以前「シ」が「xi」と書かれたことをご存じだったかもしれません。
フランシスコ・ザビエルはバスク人ですが、普通、ポルトガル語で「Xavier」と書かれます。ポルトガル語の発音なら「シャビエル」。日本で「ザ~」になったのはスペイン語での綴り
「Javier」の昔の日本語式読み方か、あるいはイタリア語「Saverio」(ザベリオ)の「ザ」のなごりかもしれません。現代のスペイン語では「ハビエル」。日本国内だけ見ても、山口には
「サビエル」、長崎や鹿児島には「ザビエル」、大阪や福島には「ザベリオ」を冠した教会や学校があります。こういった地域差も方言と呼ぶべきものなのかどうか、よくわかりませんが。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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