花樣方言 有気音と無気音の聞き分け方

2015/06/15

Vol.66<パンダとパンダ>

パンダ香港の日本語書店でもよく売れる、大人気の『日本人の知らない日本語』。この本の中に次のような、中国人の生徒からの質問が紹介されています。『日本語の「パンダ」はパンダですかパンダですか?』これに次のような説明が付けられています。『中国語には「ぱ」の発音が2種ある。どちらが日本語の「ぱ」に近いかという質問なのだが、日本人には同じに聞こえる…』。

2種類の「ぱ」の発音とは、有気音と無気音のことです。日本人が漢字を使うようになって千六百年、その過程で日本語は、本来なかった音素である拗音(きゃ、きゅ、きょ…)、促音(っ)、撥音(ん)、濁音などを獲得しましたが、有気音・無気音の区別だけは、どうにもならなかったのですね。違いを漢字の読み方に反映させることがなかっただけでなく、現代の日本人が中国語を習う際にも大いに混乱を引き起こしています。

『日本人の知らない日本語』には、外国人に「とてもよく聞かれる質問」として、『「お」と「を」の音はどう違う』という項目があります。「お」を「オ」、「を」を「ウォ」と読み分けたのは平安時代中期までで、その後は区別を失って、現在は両方とも「オ」。ではなぜこういう質問が出てくるのかというと、それは、外国人向けの多くの教科書で「を」が「wo」とローマ字転写されているからです。コンピューターのキーボード入力でも「wo」。転写は「発音記号」ではないのですが、「wo」と書いてあれば外国人は「ウォ」と読むものだと思ってしまいます。また、たとえ「を」は「オ」と読むのだと教わったとしても、J-POPなど最近の若者の歌を聞いてごらんなさい、大御所サザンオールスターズ桑田氏の歌い方を例に取るまでもなく、今では誰も彼もが「を」を「ウォ」と歌っているではありませんか。ただし、もっとよく聞いてみれば、「お」のほうも同様に「ウォ」と歌っているのがわかるはず。結局は、「お」と「を」の発音上の区別はない、というのが事実なのです。尚、歌での発音が実際の発音と異なるという例は珍しくありません。世界中あちこちの言語で見うけられます。フランス語のシャンソンの「r」や、ドイツ語の「舞台発音」、などなど。

広東語や普通話の教本は今やほとんど全てが、有気音を「p-、t-、k-」、無気音を「b-、d-、g-」で表す表記法を使っています。これを日本語ローマ字式に読んで「巴」(bā)などを「バ」と発音するのは、「を」(wo)を外国人が「ウォ」だと思っているのと同類の間違いです。上海語や蘇州語、閩南語などには現在も濁音がありますが、奈良時代に日本人が覚えた古漢語の濁音はとうの昔に、本当に「唐」の昔の時代に、すでに長安では消滅していて広東語や北京語には伝わっていません。有気音・無気音・濁音(有声音)の聞き分けは0.03~0.05秒という一瞬の間に行われ、これはイチロー選手がメジャーリーガーの速球を打ち返すのに匹敵する高度な技といえます。だから幼児の言語習得期のうちに脳にすりこんでおかないと、大人の硬い脳になってからでは、聞き分け、話し分けが大変困難なのです。

有気音はよく「息を強く出す」などと説明されますが、むしろ、声帯の振動開始の時間差、すなわち声を出すタイミングの問題です。破裂音を出す際に声帯を、①先に振動させると濁音、②直後に振動させると無気音、③少し遅らせて振動させると有気音、となります。①の濁音は、「声」を伴った気流で破裂音を起こすわけで、この音を作ったり聞き取ったりする能力において日本人は百点満点です。②と③は息の流れだけで作った無声の破裂音で、破裂の直後に、②間髪を入れず[a][i][u]などの「声」を出せば無気音、③「声」を出すまで大体0.05秒以上のタイムラグが生じれば有気音に聞こえます。タイムラグの間には息だけが出ます。この息(気)こそが有気音の正体。IPA(国際音声記号)では[pʰa]のように表します。日本人はこの小さなh(息の音)を聞き取ったりコントロールしたりする能力が、のび太の答案用紙と同じ、0点です。無意識のうちに、あるときは有気、あるときは無気、様々な音声学的条件によって変わります。日本語の場合は有気・無気どちらで言っても言葉の意味の取り違えは起こらないのですが、中国人には別の音に聞こえます。広東語話者や北京語話者はこの得点結果が日本人と真逆で、濁音0点、有気無気百点。両方とも百点を取れるのが上海語話者やヒンディー語話者。閩南語話者は濁音が70点(dがない)、タイ語話者も70点(gがない)。

日本語の有気音化には地域差があって、関東で特に強く、中部、近畿では弱レベル。世代差、個人差もあります。『アナと雪の女王』の松たか子さんと神田沙也加さんは有気音化がとても顕著。特に、妹のアナ役の神田さんがすごい。英語以上に有気音が出ています。「雪」の女王の妹は、「有気」の女王だったのですね。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

Pocket
LINEで送る