花樣方言 語呂のいい日常の決まり文句

2015/05/05

Vol.64
<平、靚、正>

電化製品「平(ペーン)、靚(レーン)、正(チェーン)」は、流行語と呼ぶにはいくぶん誤差がありそうな、けれども生半可な流行語よりははるかに吸引力のある、ここ数年香港でとてもよく使われている決まり文句です。「平」は「安い」、「靚」は「美しい」、「正」は「すばらしい」。多くは飲食関連の分野でキャッチコピーなどに使われますが、「平、靚、正」で表される範囲はどんどん広がっていて、エステなど美容関係から、メガネ、カメラ、ファンシーグッズ、アクセサリー、靴、鞄、ファッション一般、コンピューター用品、家電製品、はては海外のリゾートホテル、家の改装工事、そしてなんと株式まで、安くて良いものなら何にでも適用可能。「平、靚」ならば、「正」(いいね!)なのです。
そもそも「靚」の意味範囲はかなり広くて、靚女(美女)、靚仔(イケメン)のような美しさ(ビューティフル)だけでなく、様々な称賛に値するもの(ワンダフル)が対象となります。サッカーの、みごとなロングシュートも「靚!」。見た目はグロテスクでも質のいい乾燥アワビはやはり「靚」。人気のおしゃれ系スイーツならまさしく「平、靚、正」(安くて、かわいくて、おいしい!)。
「平」も「靚」も「正」も白話音の語彙、すなわち日常の平素な話し言葉で普通に使われるありふれた単語です。3つ並べると「ペーン、レーン、チェーン」と韻を踏みます。語呂がいいのです。広東語の大部分の漢字は読み方が1つだけ、なのですが、この「平」「靚」「正」には白話音・文言音の両方があります。「平」の文言音は「ピン」。「平等」「平凡」「和平」のような、書き言葉的な熟語の発音です。意味は「たいら」で、文言音で読む「平」(ピン)に「値段が安い」という意味はありません。「平」は、「ペーン」と「ピン」で意味も違うのです。「正」の文言音は「チン」。「正確」「正式」のように「ただしい」という意味で、やはり「すばらしい」という意味はありません。「靚」は宋代の文献に「化粧する」という意味で出てきますが、広東語で「美しい」という意味に使うのは当て字です。
「ペーン、レーン、チェーン」のように広東語で「エーン」(-eng)[ɛːŋ]の韻を持つものは全て白話語彙、どれも日常よく使う基礎的な言葉です。餅(ペーン)、病(ペーン)、名(メーン)、鏡(ケーン)、井(チェーン)、釘(テーン)、艇(テーン、小舟)、聽(テーン、聞く)、醒(セーン、目覚める)、驚(ケーン、こわい)、贏(イェーン、勝つ)…。これらに対応する文言音が「イン」(-ing、日本人には「エン」のようにも聞こえますが、短い音)[ɪŋ]。両者の違いが生じた理由は、広東語が漢字音を取り入れた時期に差があったからです。「ペーン」「メーン」など「エーン」は唐の長安の音を映したもの、「ピン」「ミン」など「イン」はその後に取り入れた、南宋~元~明~と続くのちの時代に主流となっていく中国東部の音。唐の長安の音は日本にも「漢音」として伝わっていて、平(へい、ぺい)、名(めい)、艇(てい)、醒(せい)、贏(えい)…、広東語の白話音に似ています。輸入元が同じなので、似ていて当然なのです。平(ペーン)、靚(レーン)、正(チェーン)は、流行語と呼ぶには…、かなり古い言葉だったのです。
広東語の白話・文言音は2重の構造ですが、客家語などには、なんと4重構造があります。古い順に「アン」「イァン」「エン」「イン」。それぞれの層に、釘(タン)、艇(ティアン)、丁(テン)、亭(ティン)、などが含まれます。古い層には昔から使ってきた基礎的な語群、そして新しい層に移るにつれ、書き言葉で使うようなハイレベルな語群へと、徐々に変わっていくのです。これは客家語が広東語より多く、4回にわたって、異なる時代・異なる地域の漢字音を取り入れたことを物語っています。ちょうど地層が、下の層に恐竜など古い生物、そして上の層に行くにつれ、より新しい生物の化石を含むのに似て、取り入れた時代ごとに異なる発音と語彙が層を成しているのです。なお、唐代の発音を初めて復元したスウェーデンの学者カルルグレンはこの韻を-ieŋと再構しましたが、のちに、広東語の白話音「エーン」や客家語の「エン」の層のように「i」は無く-eŋだったことが日本の有坂秀世博士らによって明らかにされています。日本語の「呉音」は、客家語の「エン」(≒漢音)の層の次に古い「イァン」(-iaŋ)の層に相当します。平(びょう、旧仮名は、びやう)、名(みょう、みやう)、艇(ちょう、ちやう)、鏡(きょう、きやう)。呉音は隋唐以前の東晋などの発音。中国東部の古い時代の「i」を映しています。
北京語は、広東語や客家語が持ついちばん新しい層、ピン(平)、ミン(名)、亭(ティン)…の層しか持っていません。釘dīng、艇tǐng、丁dīng、亭tíng、いずれも「イン」(-ing)だけ。このことからも北京語は新しい言葉なのだとわかります。恐竜の化石なら北京近郊の地層からたくさん出るようですが。化石の発掘にはお金がかかりますが、言語学は安く済みます。「平、靚、正」な学問ですよ。
大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

 

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