花樣方言 中国で8億人以上が見た!?『君よ憤怒の河を渉れ』

2015/02/03

Vol.60
<憤怒の河>

夜のライトアップ風景

高倉健主演の『君よ憤怒の河を渉れ』は中国で一説に8億人以上が見たという、とんでもない映画です。日本では平凡な評価に過ぎなかったこの映画が中国でいかに人気を博したか、それは健さん及び、共演した中野良子さんの中国での知名度の異様な高さが示す通り。中野さんは、劇中の役名「真由美」を以って、「永遠の真由美」との称号を戴いています。

『君よ憤怒の~』(今風に略すと『君憤』ですね)の「憤怒」の読み方は「ふんど」です。なぜならば映画のタイトルに「ふんど」と振り仮名が振られているからです。原作は西村寿行の同名の小説で、本のタイトルを言うときは「憤怒」の読み方は「ふんぬ」です。なぜならば本には「ふんぬ」と振り仮名が振られているからです。

「怒」の音読は、呉音が「ぬ」で漢音が「ど」。日本の漢字を呉音で読むか漢音で読むかの規則は、あるようでない、ないようであるのですが、基本的には、漢音に統一しようという動きがあったもののそれにまつろわぬものが呉音で残っている、と言い表せましょう。要は、呉音が古くて漢音が新しいのです。江戸が東京と改名したとき、漢音の「とうけい」ではなく呉音で「とうきょう」に収まるまで約20年かかってますが、京都が「けいと」でなく「きょうと」である以上、東の京である東京を「とうきょう」と読むのがやはり自然な流れだったのでしょう。京浜、京葉、京成などを「けい」としたものの「埼京線」では「きょう」に回帰しています。「男女」「白衣」「競売」は、「なんにょ」「びゃくえ」「きょうばい」の呉音を「だんじょ」「はくい」「けいばい」と漢音に直した例。しかし、「なんにょ」は「老若男女」という熟語の読み方に残っています。新進の西洋医学界は新しい「はくい」を採用したものの、伝統的なお遍路さんの白装束は「びゃくえ」のまま。これは漢音と呉音で意味が分化した例。裁判所が行う差し押さえ物件の競売は法律用語で「けいばい」ですが、一般には「きょうばい」のほうを多く使います。呉音で読む「未曾有」の「有」(う)を「ゆう」と漢音で読んで笑われた著名な政治家(元・首相)もいます。

「怒」は、怒号、怒声、激怒、喜怒哀楽など、皆、漢音の「ど」で読むのですが、「憤怒」だけは、「ど」と「ぬ」の両方が普及しています。『君憤』は小説の発表と映画化の間にたった2年の開きしかないのだから、まさに同時代においての併存です。「憤怒」の一語だけを例外とするような不規則を嫌って統一性を求めた、平易な方向への変化の流れが「ふんど」で、「憤怒」の「怒」は「ぬ」と読むのだとする伝統に従った保守的な流れが「ふんぬ」であるといえます。「日本」という国名でさえ「にっぽん」という呉音と「にほん」という慣用音のにほん(二本)立てで、統一の動きがほとんどないのだから、「憤怒」などという普段ろくに使わない語の読み方が複数あっても特に不思議ではないのですが。尚、「日本」を「じっぽん」と読む漢音は昔、長らく存在したのですが(三本立てだったのです)、自然に消滅しています。「来日」を「らいじつ」と読む人は、まだいます。

呉音は、隋唐以前に日本に伝わった、中国南朝の発音。漢音は、遣唐使や留学僧が覚えてきた、唐代後期の長安の発音。中国語の、時代と地域による違い(つまりは古語と方言)が日本語の中に移植されて残っているのです。閩南語は日本の呉音・漢音に似て大量の白話音・文言音を持ちますが、面白いことに閩南語でも、「東京」は「タンキャン」と、白話音で読むのです。「キャン」は「きょう」(旧仮名で「きやう」)と同じ呉音系ですが、しかし「東」の白話音「タン」は、来歴不明、閩南語特有の読み方です。「六」(ロク)を閩南語白話音でlakと言うのと同じで、「東」「冬」などの「トン」も「タン」なのです。台湾には「東」を「タン」と白話音で言う地域と「トン」と文言音で言う地域があって、これは典型的な、地域による分化の例。ヨーロッパ語から日本語に入った語の例では、ドイツ語の発音なら「ゼミナール」であるSeminar、同じゲルマン語派の英語経由なら「セミナー」。「ビール」はオランダ語で、ビヤ樽、ビアガーデンなどの「ビア(ビヤ)」が英語。ラテン語派からは、カフェ・オ・レの「レ」(lait)がフランス語、カフェ・ラテの「ラテ」(latte)がイタリア語、乳の意味。フランス語「ア・ラ・カルト」の「カルト」(carte)、ポルトガル語から来た「かるた」(carta)、ドイツ語の「カルテ」(Karte)、皆日本語に入って意味が分化した、様々な「カード」(card)です。

香港では、『君憤』や高倉健が特に有名なわけではなく、オールドファンなら原節子も小津安二郎も知っています。木枯らし紋次郎も姿三四郎も『サインはV』も知っています。『君憤』は中国での題が『追捕』。香港には『大追捕』という映画があって、日本の『ガリレオ』を彷彿させるサスペンスです。福山雅治は台湾では「龍馬」としても有名ですが、香港では圧倒的にガリレオ。龍馬は「りゅうば」が漢音で「りょうま」が呉音。「馬」は、寒立馬(かんだちめ)、流鏑馬(やぶさめ)などの「め」こそが呉音なのですが、呉音はどうも曖昧模糊としたところがあって、一筋縄では行かないのです。

大沢さとし(香港、欧州、日本を行ったり来たり)

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