2分で読める武士道 第19回

2021/12/22

2分で読める武士道

 

世界中で注目されている日本人特有の性格や行動の数々。
それらの由来は武士道精神にあった。
しかし、肝心の日本人にその武士道精神が浸透していないのが日本の現状である。

 

筆者が外国生活を通して感じた日本人の違和感を「武士道」や「葉隠」などの武士道関連文献をもとに紐解いていく。

 

 

 

 第19回 私たちに気力がないのは誰のせい?

古来の勇士はたいがい皆変わり者である。突飛なふるまいに走る性格である分、気力が強く、勇気もある。勇気とはそういうものなのか、そのあたりがよくわからないので尋ねたところ、「(そうではなく)彼らは気力がありすぎるので、普段でも粗暴で奇矯なふるまいに走るのだと思う。当世の武士は気力は弱いので、突拍子もないふるまいは出来ない。気力は昔の武士に劣る。その分、人柄はきちんとしている。ただし勇気の有無は本来、気力や人柄とは別の事がらである。当世の武士は気力がないから常識的で、死地に突入する勇気も劣るなどとおとしめられるいわれはない。死を決して戦うことに、気力は必要としないのだ」(聞書第一 p.320)

新渡戸稲造の武士道でも述べらているように、勇気とはいつも勇猛果敢に死を選択することではなく、生きるべく時に生き、死ぬべく時に死ぬことの判断ができること、そしてそれを実行できる行動力を指す。気力という言葉は「精神力」と捉えることができ、私たちの生活で精神力が大事になってくるのは病気、災害、逆境、失敗などのつらく、苦しい時であることは誰にでも言えることだろう。苦しい瞬間というものは人生において今も昔も避けられないことだが、今は昔に比べると断然暮らしやすい世の中となった。医療技術は発達し、災害は予測できるようになり、コンピューターのおかげで多くの失敗も簡単に修正できるようになった。このように便利になった生活の中ではたびたび科学が問題を解決してくれるため、私たちが自らの精神力で困難に耐え打開するというチャンスは少なく、100年前の人間と比較したら私たちの精神力、つまり気力が弱ってしまっているのは確かかもしれない。

ただし、「僕は精神力が弱いからいざという時に勇気が湧かないんだ」というように物事を片づけるんじゃない、というのが武士道の考え方である。精神力が強い弱いに関わらず、人間誰にでも勇気を振り絞らなければならない瞬間はある。そういう場面で勇気が出ないのは個人の責任なのだ。メンタルというものは鍛えにくいものだが、ここ一番での勇気については、常日頃から自分の役割、立場を把握して、例えば家庭でも職場でも忠誠を誓えているかどうかが大切である。

今どきの者に気力が無いのは、世が平穏無事であるせいである。何か事が起きさえすれば、少しは骨っぽくなるであろう。昔の人間が今と異なっているはずはない。たとえ違っていたとしても、昔は昔である。今の者については、世間全体の気力がおしなべて低下しているのだから、昔の者に人として劣っているなどといわれる筋合いはない(聞書第一 p.329)

一方で私たちの精神力が弱くなってしまったのは世の中の責任とも言える。ニュートラルで色のない平和な世の中は私たちの精神力を少しづつむしばんできた。昔と今の人間に本来大きな違いはなかったが、環境の変化とともに人間の中身も変わってしまったのだ。現代の若者がもし100年前のような生活環境に放り込まれたら、自然と気力や精神力というものが漲る(みなぎる)に違いない。ただそういう環境が今の世の中にはないだけだ。

時代の風潮というものは、変えることができない。(中略)一年の間でも、ずっと春だけとか、ずっと夏だけとか、同じ状態が続くということはない。一日の間でも同様である。だから、今の世を百年も前の良い気風に戻したくても、出来ないことである。となれば、その時代時代において、良いようにするのが大切である。昔風を慕う人が過ちを犯すのは、この点である。(聞書第一 p.318)

変わってしまった環境は変えることができないので、その環境に合わせて自分が変わるしかない。過去の経験や実績は次の問題に取り組むための解決策と自信を与えてくれる。しかし、過去のやり方にすがりすぎて足元をすくわれるというのもよくある話で、その時代、状況に合ったやり方というのを柔軟に見つけていかなくてはならない。ただ今は環境や流行の変化が激しい過ぎるがために人々が疲弊しているのも事実である。
引用:講談社学術文庫「葉隠(上)」


profile筆者プロフィール

宮坂 龍一(みやさか りゅういち)
東京都出身。暁星高校、筑波大学体育学群卒業。
香港の会社、人事、芸能、恋愛事情にうるさい。

 

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