花様方言 Vol.202 <捨て仮名>

2020/11/25

Godaigo_logo

 タレントの中川翔子さんには名前にまつわる次のようなエピソードがある。出生届のとき「薔子」(しょうこ)とする予定だったが、「薔」が常用漢字及び人名用漢字でなかったため受理されなかった。しかたなくひらがなにして提出したのだが、憤慨して書きなぐったため「ょ」が大きめになってしまい、「しようこ」と登録されてしまった。だから戸籍上の本名は「中川しようこ」である。

 この話は相当おもしろいと思われているようだ。(中川さんはNHKの『日本人のおなまえっ!』にも出演した。)だが、小さい仮名(「すてがな」といいます)を使わない表記は、実はまったく特別ではない。今でも、キヤノン、キユーピー、シヤチハタ、オンキヨー、などなど会社名ではよく見る。捨て仮名の歴史は非常に新しく、正式に使われるようになったのは戦後の「現代かなづかい」から。しかも法令や公文書ではもっと遅く、1988年の《法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について》(昭和63年7月20日内閣法制局総発第125号)からである。歴史的仮名遣いにうるさい人なら、翔子も薔子も「しやうこ」だ、承子とか昇子とか勝子が「しようこ」だ、と言うかもしれないが(って、そんなやつもういねえだろ)、捨て仮名はもはや完全に定着していると見ていい。キユーピーも、東京ドームの広告には小書きで「キューピーハーフ」と書いてある。

 外来語では、和語や漢語にさきがげて、オリムピック、ヴィタミン、キャベツ(宮沢賢治はキャベジと書いた)、戦前から捨て仮名が使われていた。コロッケやカフェーやレビューは大正時代からあったし、エッフェル塔は明治だ。けれども、ウイルス、ウエハス、ゼリー(ジェリー)のように捨て仮名が根付かなかったのも多く、フィルム、ファン、フィリピン、などは年寄りの年代だと、フイルム、フアン、フイリッピン、である。(社名の「富士フイルム」も小書きにしない。)全国の小学生が『妖怪ウォッチ』に夢中だったとき、あちこちのデパートやモールでイベントをやっていたが、会場の案内書きには、「妖怪ウォッチ」「妖怪ウオッチ」、両方があった。NHKの『ニュースウオッチ9』は小書きにしない。が、アナウンサーははっきり「ウォッチ」と発音している。「ウオッチ」は4拍、「ウォッチ」なら3拍の長さ。現代日本人は依然、ワ行の「ウィ、ウェ、ウォ」が曖昧で(昔はあった。ゐ、ゑ、を)、ウォッチと書いてもウオッチと読む。ウオッチと書いてウォッチと読むNHKは浮世離れしすぎている。

 拗音や促音や撥音(ん)は、漢字が日本に伝わったことによって生まれた。もともと日本語にはなかったものだ。今でも、縄文語のなごりを保っている(と思われる)東北の言葉では「拍」がえてして曖昧である。促音も非常に短く、1拍分の長さがない。盛岡に「チャグチャグ馬コ」というお祭りがあるが、「馬ッコ」と書いてしまうのは若い世代かよそ者だ。(促音の捨て仮名は1拍になる。)「ッ」は書かないのかと聞いてみたら、「馬」の中に埋(うま)ってる、と答えが返ってきた。(本人はダジャレに気づいてないようだった。)お茶っこ、銭っこ、嫁っこ、なども、お茶こ、銭こ、嫁こ。みんな「っ」が「埋まっている」。英訳では「Chagu Chagu Umakko」だが、英語はイタリア語とは違って、重ねて書いたところで「促音」にはならない。Umakkkkko、ぐらいに書いてやらないと違いに気づかないだろう。それから、東北や九州の「しゃ」「ちゃ」は、いわゆる「拗音」ではない。かつて「さしすせそ」は日本中で、シャ~、または、チャ~、ツァ~、と発音していた。そのなごりだ。「三味線」は「さんみせん、さみせん」ではなく「しゃみせん」と言う。「茶」は「さ」と書いてチャと読んでいた。しませう→しましょう、よろしう→よろしゅう、取りて→取って、やはり→やっぱり、のように、後になって和語にも拗音・促音が生まれてきた。

 『ゴールデンカムイ』という漫画で、アイヌ語の、アシパ、ホケウオコニ、インカマッ、のような捨て仮名が注目された。アシ(asir、新しい)、ホケウ(horkew、狼)、ポ(pok、ホッキ貝)、ペッ(pet、川)など、後ろに母音が付かない、単独の子音を表したものだ。これは広東語、タイ語、韓国語などのカナ表記にも応用できる。このやり方なら「Chek Lap Kok」(赤角。香港の空港)をチェックラップコックなどと書かずに済むのだが、聞き取れもせず、発音のしかたもわからない音の表記が普及するとは思えない。欧米では「東京」の表記がようやく「Tokio」から「Tokyo」に落ちついてきたが、この二つの発音の違いまでは、彼らにはわからない。びよういん(美容院)とびょういん(病院)の区別など、絶対できない。

 

P07 Godaigo_765

 

 現行の「現代仮名遣い」(昭和61年~)には、それぞれ次のような記述がある。【拗音に用いる「や、ゆ、よ」は、なるべく小書きにする。】【促音に用いる「つ」は、なるべく小書きにする。】これらの「なるべく」は、二つの意味にとれる。すなわち、「絶対に小書きにしなければならないというわけではないが、なるべく小書きを実行する」と、「5ミリよりも2ミリ、2ミリよりも1ミリ、なるべく小さなサイズで書く」。前者なら、「キヤノン」とか「しようこ」とか(例外的だが)書きたければこう書いてもいい、という裏の意味がある。後者なら、はっきりと小書きにしないと「しょうこ」を「しようこ」と誤って登録されるような事故が起こるぞ、と警告しているようにとれる。どっちの意味なのか、いつか文化庁に問いただしてやろうと常日頃から思いつつ、いまだ実行に移していない

大沢ぴかぴ

Pocket
LINEで送る