中村祐人選手に聞く、 「中村祐人という生き方」

2019/07/12

~ 中国国籍を取得し、香港代表として生きる ~

Photo022018年10月、サッカーの中村祐人選手が、中国国籍を取得したことが大きな話題となった。
また、今年5月には、リーブル出版より、「サッカー香港代表中村祐人という生き方」という本が発売された。長い間、中村選手に密着してきた、松本忠之氏が書かれた本である。
それを受け、今回、PPW編集制作部が、中村選手の所属する香港プレミアリーグ「傑志(Kitchee)」に伺い、ご本人に直接インタビューを行なった。

 

 

 

 

 

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1.サッカーを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

父が、日本フットボールリーグ(JFL)という、アマチュアリーグで選手をしていた影響で、気づいたらボールを蹴っていたという環境でした。ただ、チームに入ったのは遅くて、小学4年生のときでした。

 

2.その中で、サッカー選手を目指そうと思ったタイミングというものはありましたか?

特にタイミング的なものはなく、小さな頃からずっと、「サッカー選手になりたい」と思っていました。それ以外の選択肢は全くなかったです。

 

3.同じ業界へ進むことに対して、お父様から何か言われたことなどはありましたか?

父が「浦和レッズ」で仕事をしているのですが、僕自身もそのジュニアユースチームでサッカーをしていました。「お前なんてプロは無理だよ」と言われていましたね。かなり厳しくはあったのですが、「あまり調子にのるなよ」という意味だと受け止めていました。

大学に入って、結果を出し始めた頃から、徐々に「がんばれ」という言葉をかけてくれるようになりました。

 

4.高校卒業後、大学に進むことは、最初から決めていたのでしょうか?

もちろんそのままプロになりたいという思いはありました。ただ、オファーが来なければ、なりたいと思っていても、なれるものではありません。高校3年生の夏までにオファーをもらえなければ、大学に行ってサッカーをしようと決めていました。そこからは、頭を切り替えて、大学のスポーツ推薦をもらえるように、結果を出すことに集中しましたね。

 

5.大学卒業後、香港でサッカー選手となった流れを聞かせてください。身近に香港に所縁のある方はいらっしゃいましたか?

家族は全員生粋の日本人で、香港に所縁のある人はいません。大学4年生のときに、日本プロサッカーリーグ(以下、Jリーグ)のクラブからオファーをもらうことができなかったのですが、どうしてもサッカーを続けたいという思いがありました。「サッカーをするならプロで!」と考えていたので、必然的に海外に目を向けるようになりました。最終的には、父の知り合いの代理人を務めている方が、「香港のクラブはどうか?」と提案してくれて、トライアウトを受け、

「TSWペガサス」というチームに所属しました。それが、2009年1月のことです。

 

6.香港と聞いたときに、どのように感じましたか?

実は、そのときまで香港に足を踏み入れたことすらなかったのですが、「サッカーができるならどこへでも行こう」と強く決めていたので、特に抵抗などはありませんでした。この時点では、「とにかく香港で結果を出して、いつかJリーグに挑戦しよう」という気持ちでいましたね。

 

7.その後、欧州のクラブに所属した時期を経て、こうしてまた香港に戻ってきたきっかけを教えてください。

ポルトガルの「ポルティモネンセ」というチームに1年間所属しました。そのチームも結果が出て、次のシーズンには1部リーグに昇格し、実際、契約延長の話ももらっていたのですが…試合に出る機会が圧倒的に少なく、それでは意味がないと感じていました。

早い段階から、香港の古巣「TSWペガサス」からオファーをもらっていました。こちらの方が試合に出る機会が多く、条件もよかったので、総合的に判断して戻る決断をしました。

 

Photo048.香港のサッカー事情について聞かせてください。日本や欧州との違いはありますか?

会長の機嫌がダイレクトにチームに影響することくらいですね。どこへ行っても結果主義なので、その点では、香港でも日本でも欧州でも変わりはありません。

 

 

9.香港で選手として活躍するだけではなく、更に中国国籍まで取得されていると伺いました。そのことにためらいなどはなかったのでしょうか?周りの反応、そして、ご自身の気持ちの動きなどを教えてください。

全くためらいはなかったですね。サッカーをやっている以上、「代表でプレーしたい」という思いがかなり強くありました。香港のことが大好きですし、一番香港に貢献できる道が、香港代表としてプレーすることだと感じていたので。

これまで香港に3回助けられてきたんです。1回目は2009年1月、香港でプロサッカー選手になることができました。2回目は2010年7月、ポルトガルで壁にぶち当たっていたところを救ってもらいました。3回目は2011年7月、7試合連続で点が獲れず、クビになってしまい、日本に戻ってアルバイトをしていたところ、再びオファーをくれたのも香港でした。とにかく縁があり、思い入れの強い場所。その香港に恩返しをしたい思いがあります。

中国国籍を取得したという報道が出た当日は、本当にたくさんの人たちから直接メッセージをもらいました。それは、ただただ嬉しかったですね。メディアなどにも取り上げてもらったので、賛否両論様々なコメントも目にしましたが、香港の方からの批判的なコメントには多少凹んだものの、特に気にはなりませんでした。歓迎してくれるコメントの方が大多数だったので、それにはかなりホッとしました。肝心の家族からの反応ですが、これが特に何もなかったんです。純粋に応援してくれましたね。

 

10.松本忠之氏著「サッカー香港代表中村祐人という生き方」という本は、どのような経緯で生まれたのでしょうか?

松本さんは、ずっと僕のプレーを好きでいてくれていて、事あるごとにインタビューなどしてくださっていたんです。本にするというお話をいただいたのは、1年半ほど前でしょうか。僕が中国国籍を取得することを決め、具体的に動き始めたタイミングです。最初に出版の話を聞いたときにはいやでしたけどね(笑)自分では「そんなの誰が興味あるんだ!?」って思ってしまって…でも、有難いお話です。

 

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11.ご自身が思う「中村祐人という生き方」はどのようなものでしょうか?普段、大切にされている考え方などがありましたら、教えてください。

「小さなことでも少しずつ目標を立てて、一生懸命、謙虚にやっていくこと」ですかね。もちろん大きい目標はありますが、それに向かう上での小さな目標を立てていって、それらを1つ1つクリアしていくことを大切にしています。

例えば、「香港代表としてプレーをする」というのは大きな目標でした。それに向かう上での小さな目標というのは、「常に契約を更新し続けること」。そのためには、「1シーズン1シーズン結果を残す」「1試合1試合無駄にしない」。また、そのために、「この1メートル、この10センチをどう動くか」までに落とし込み、練習のときからそういった部分を意識して、油断せず取り組んできました。もちろん、今でも、そうしています。

 

Photo0512.そういった考え方は、昔から大切にされてきたのでしょうか?

香港に来てからですね。日本にいた頃は、もっと我が強かったと思います。香港で揉まれている間に変わってきました。

あと、妻の影響も大きいですね。僕が選手として活躍するために、彼女も一緒にがんばってくれているので、その気持ちに応えたいという思いがあります。妻との出会いで、随分よい方に性格も変わったように感じます。

 

13.すでに以前に立てられてた大きな目標は叶えられたと思います。今後の展望などありましたら、お聞かせください。

「僕が生きている間に、香港がW杯に出場する」というのが、今の大きな目標です。

そこに向かうために、今年の12月に韓国で開催される「EAFFE-1サッカー選手権」の香港代表に選ばれることを目指しています。9月からはW杯の予選も始まるので、それにも注力していきます。

そのためには、まず、チームの力を上げていくことが最優先なので、所属チームである「傑志(kitchee)」に貢献することを考えています。今年は、怪我をしてしまって、あまりチームに貢献できていないので、チームやファンの皆様にもう一度自分の実力を証明していくというところからやっていかないといけないと感じています。

 

14.最後に一言お願いします。
ぜひスタジアムまで香港サッカーを観にきてください!!!

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中村祐人(なかむらゆうと)選手

1987年1月23日、千葉県浦安市生まれ。現在、香港プレミアリーグ「傑志(Kitchee)」に所属。5歳からサッカーを始め、柏レイソルジュニア時代に全国少年サッカー大会8強。浦和レッズジュニアユースで日本クラブユース(U-18)選手権準優勝後、西武台高サッカー部に移り、3年時に選手権に出場。青学大に進み、2年時の2006年に関東大学2部得点王とベストイレブン。2009年1月に香港「TSWペガサス」に入団。ポルトガル「ポルティモネンセ」を経て、現在に至る。

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