クロード・モネとカミーユ・モネの物語

2018/02/20

クロード・モネ(1840-1926)はフランス印象派の絵画の創始者の1人であり、印象派という言葉自体、彼の描いた”印象・日の出”に由来している。

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モネが幼い頃、父親は彼に食品に関する仕事に携わることを願っていたが、既に彼の心は芸術に向いており、11歳でル・アーヴル中等美術学校に入学する。在学中は10~20フランで上手に似顔絵を描く少年として近隣に知られていた。5年後彼は画家のウジェーヌ・ブーダンに出会い、戸外制作と油絵のテクニックを享受され、彼に師事した。16歳でパリの学校を去ってから、モネは教室で巨匠たちの作品を学ぶ代わりに、窓辺に座って景色を描いた。

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スタジオをシェアしていたフレデリック・バジールに紹介され、初めてモネがカミーユに会ったのは25歳の時。彼女は7つ下の18歳だった。モネはとりわけ彼女の瞳に惹かれ、大判の野心作、”草上の昼食”のモデルを依頼した。ルノワールとモネは生涯の友であり、しばしばイーゼルを並べて制作活動を行っていたため、ルノワールも時にカミーユを描くこともあったという。

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“草上の昼食”はサイズの問題と不運が重なり結局サロンで展示されることはなかったが、モネは代わりにカミーユの等身大の肖像画を出品し、800フランという1865年当時の若手画家の作品としては破格の値段がついた。その翌年カミーユは長男ジャンを出産。2人が結婚したのはその後の1870年6月のことだった。

心優しくチャーミングで、気品に満ちたカミーユを、周囲の人々は“ラ・モネ”と呼んで慕った。しかし結婚生活は経済的に苦しく、モネは友人に向けた手紙にこう書いている。“私達には暖をとる火も、食べるものもない”と。

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無理がたたったせいか、次第にカミーユの健康状態は悪化し、1879年8月、32歳でこの世を去ってしまう。モネは死の床にあるカミーユを描き、後に友人に宛てた手紙でこう書いている。「私は無意識的に死によって変化してゆくカミーユの顔色を観察しているのに気がついた。彼女との永遠の別れがすぐそこに迫っているので、カミーユの最後の姿を捉え、記憶しようとしたのは自然だったのだろう。しかし私は、深く愛した彼女を記憶しようとする前に、彼女の変化する顔の色彩に強く反応していたのだ」と。人生の全てを絵に捧げてきたモネは、妻の死の時にすら描くことをイメージしていた。

2番めの子供が生まれた頃からはそれまでのような貧困に陥ること無く、数々の名画を生み出した彼は、1890年には大きな庭園のある家を購入し、そこで創作活動を続けた。

自然を描いた画家として著名なモネ。庭はそんな彼にとって最大のインスピレーションの源であり、数多くの植物に関する書籍を所有していた。庭のデザインやレイアウトへのこだわりは相当なもので、庭師に詳細な指示をし、一時は7人もの庭師を雇ったという。モネが肺癌でこの世を去った後、唯一生存していた彼の息子、ミシェルは不動産を相続し、修復を施して、家屋とモネの愛した広い庭を一般に公開した。

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