九龍城砦香港にもあった無法地帯

2017/10/24

地球上の多くの国家や都市、小さな島でさえも、課税や市民権といったルールが定められている。だがもし、貴方の近所に突然無法地帯が出現したとしたらどうだろう。どのような業種が出現し、基礎的なサービスが継続されるために人々はどのように協力をするのだろうか。

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香港の近代史から、その一例、九龍城砦をご紹介しよう。九龍城砦が歴史上に登場したのは宋の時代(960~1297年)。かつて塩の貿易が盛んに行われていた頃、海賊からの防衛策として城砦を作り、兵士を置いたのが始まりだ。その後19世紀後半、英国の侵略に対する防衛措置として、駐屯地における要塞へと変わった。

1898年、イギリスは清との間に、九龍と新界地域の99年の租借契約を結んだが、2.7ヘクタールあるこの要塞は除外とされ、またいくつかの事象が重なったために、実質どこの国の規制や法が及ばない無法地帯となってしまった。

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第二次世界大戦後、九龍城砦には不法占拠者がなだれ込むようになり、増築が繰り返されて拡大していった。1950年までに人口は1.7万人に増え、1990年には5万人以上の人々がラグビーコート2つ分の面積に暮らしていたという。

九龍城砦は都市の中の独立したバブル社会と表現されることも多いが、インフォーマルながら経済活動が活発であったために、外部の顧客もその恩恵を受けていた。こうした共生の形は歴史上珍しく、その存在を現在も印象的なものにしている。

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九龍城砦というと、犯罪行為や売春宿、違法賭博などの不正事業が横行していたイメージが先行しがちだが、実はそれはほんの一端であり、広いスペースや公共施設とのきちんとした繋がりを有さなかったにも関わらず、その生産性は非常に高かった。事実、何百もの小規模な工房、工場が香港全域の企業に製品を提供し、香港のシャドー・エコノミーとも言われていたほどである。そのアウトローな環境に恩恵を求めて行く人のほか、倒産や貧困、追放など、多くの理由から、人々は九龍城砦へ流れ着いた。

特筆すべきは、歯科医師と医療従事者の多さだろう。中国から香港に移住した彼らは、安い賃料に加え、そこでは植民地政府が要求する高額なライセンス・フィーの支払いとトレーニングを回避することが出来た。また製造業では、より安価に製品を世に送り出すため、火災や労働、安全に対するルールは無視されていたし、外では違法とされる行為(たとえば犬肉料理の提供など)も行われていた。
ただ、そのような中でも市議会のような組織が存在し、内紛の解決やごみの処理、節電、有志の消防団などの形成に取り組んでいた。また、正式に土地の所有権が認められるとは言い難い状況だったが、人々は砦内の不動産売買を行っていた。

1993年、多くの土地買収や強制移転を経て、九龍城砦は解体され、公園となった。他の地での賃料が高すぎたために、九龍城砦で開業していた事業者の多くは廃業を余儀なくされたという。

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