新しい事を始めた人、始めた事特集 Part 3

2018/06/25

和泉素行+先生+Main+Photo

新しい事を始めた人
和泉 素行さん

始めた事
香港で広東語での芸能活動

 

 

PPW:まずは素行さんの学生時代を教えてください。

素行:はい。香料の会社に勤めていた父親の仕事の影響で日本各地を転々としていましたが、岡山で過ごした高校は先生も生徒も学校全体が一丸になって、いい大学に行くぞ!といった進学校でした。先生でさえも、あまり良くない先生は他校へ飛ばされるようなハイパー進学校だったんです。夏休みも2週間もなく勉強に明け暮れるような学校だったのですが、勉強の傍らサッカー部に所属していました。また絵を描くことも好きで絵描きになりたいという願望もあったので、美大への進学も考えたりもしました。そこで美術の先生に相談し、サッカーも勉強も止めて美術の勉強に打ち込むようにアドバイスをもらったのですが、みんなとワイワイやるサッカーが楽しかったので美大を諦めました。いろいろな事に興味を持つ歳ではあったのですが、学校の先生には、大学に行ったら好きなことやればいいから、とにかく今は勉強だけ頑張ってくれと言われ、はみ出すこともできず、立ち止まることさえできず、あまり他のことは考えずに勉強だけに打ち込みました。その為、大学時代は、色々とやりたいことに打ち込んだ日々を過ごす事になります。卒業さえできればいいやといった考えだったので、勉強はほどほどにして、当時流行っていたミュージシャンのゆずに憧れてギターを始め路上で歌ったり、コントや漫才、安い8ミリのビデオカメラを買ってショートムービーを撮ったり、新聞で募集している劇団に入ったり、モデルをやってみたりしました。漫才に関しては、神戸のライブ会場でお客さんが10名もいませんでしたが、定期的に出演したりもしていました。また、その当時に第二言語で中国語を勉強することになります。父親と相談した時にこれからは中国が伸びるからというアドバイスをもらい、好きなことをやっても潰しが利くようにと中国語だけはしっかり勉強する事にしたんです。他の成績は可ばかりでしたが、中国語だけは優でしたね。今にして思えばそれが今の自分の仕事に繋がっているので父親には大変感謝しております。
卒業後には就職する気もなく、大学4年生の時に漫才で食っていこうという気持ちが芽生え、ある日の夜に漫才の相方を神社へ呼び出し、俺と一緒に吉本へ行ってくれ!と熱く語ったのですが、相方には「何言ってんねん!俺は就職するよ!」とドン引きされてしまいます。そして、それは漫才の道が絶たれた時でもありましたが、それとほぼ同時にまるで天命のように大学で交換留学の制度が突然できたのです。先生に「お前の中国語はなかなかのものだから、お前が交換留学生として、広州へ行かないか?」と打診され、広州へ留学することになります。この時に、中国での芸能活動って面白いかもしれないなぁ。と思って留学を決意したのです。

 

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PPW:先見の目がありますね。広州での生活はどうでしたか?

DSC_1473

素行:色々と為になりましたね。まずは海外に住んだことがなかったので、すべての経験が勉強になりました。現地の人は声が大きいし、店員もお客様は神様という気持ちがぜんぜんなく、お釣りを投げてよこしたり、悪い物を食べてお腹を壊したり、とにかく全てが新鮮でした。そして、その経験でたくましくもなりました。留学1年目で、広州でモデルの登録をしたのですが、そこのエージェンシーは詐欺まがいの会社でした。登録料600元を支払い、一度講習を受けると、その後は何も音沙汰がなくなってしまったのです。それを見かねた現地の知り合いが別のエージェントを紹介してくれて、広州での芸能活動がスタートします。モデル事務所とレコード会社の合弁で、広州人のかっこいい男の子2人と私の3人で【スマート】というアイドルユニットを立上げ、活動がスタートしたのです。結成後は、土佐周り的にショッピングモールや学園祭などに行って活動をしていたのですが、結構ウケが良くて、これは行けるという実感がありました。日本人と中国人のユニットで、北京語で歌を歌うグループなんて当時は皆無でしたからね。ところが、出すレコードは日本の歌の北京語バージョン。版権に関しても疑問を持つような体制だったんです。その後はモデル事務所とレコード会社との間で利益の取り分に関しての紛争が起こり、ユニットの活動もできない状態になってしまいました。

 

 

PPW:その後は、どうされたんですか?

素行:広州では結局通算3年間の留学生活を送りました。最後の年は大学を休学できるリミットの年でもあったので、大学を卒業するかどうか迷いましたが、親にも大学だけは卒業してくれと言われたのでとりあえず日本に戻り卒業だけはしたのです。その後に台湾に2ヶ月ほど行き、それから香港に来ました。台湾に行ったのは、当時僕は北京語で売っていたので台湾マーケットにも興味があったからです。台湾で登録していた事務所では、ご存知の方も多いかと思いますがブルネイのお金持ちのお坊ちゃんで、台湾で有名になった呉尊というアイドルと同期でした。事務所は呉尊を積極的に売り出していく方針で、私はマネージメント層に呼び出されて「素行、悪いけど台湾では呉尊みたいな甘いマスクの方が売れるんだよね。お前みたいなタイプは、シンガポールとかの方が合ってるんじゃないのかな?うちにいても良いけど、どこか紹介してやるから、他の国に行ってみたらどうだ?」と言われてしまったんです。そこで広州留学時代に知り合った香港のエージェントを頼って香港に来ることになったんです。その時に、「最低10年は香港で勝負しよう。結果がでるまでやり続けるんだ。もう国をあちこち変えることはせずに、香港に決めた!」そんな決意が生まれました。

 

日本の文化を伝える 為の仕事も順調に増加傾向

日本の文化を伝える 為の仕事も順調に増加傾向

工作風景3

PPW:それから香港での芸能活動が始まったんですね。

素行:はい。そうですね。ただ、びっくりするくらい仕事がなくて、エージェントが探してくれた当時4800HK$の狭い部屋の家賃も払う事が厳しくなって、2500HK$の部屋を自分で探して引越したりもしました。バンドを始めたり、事務所には昔出していたレコードを見せて、自分をもっと売り込むようにお願いしたりもしたんです。ただ、バンドも事務所もあまり良い方向には動かず、数年間はアルバイトをしながら生活を続けていました。芸能活動で入ってくる収入より、アルバイトで入ってくる収入の方が多く、とても惨めでしたね。「何やコレ、俺タレントちゃうやん・・・。」って。もともと学生の時から、漫才をやるにしても何をやるにしても30歳までに売れなければ、何らか人生の方向転換をするつもりだったので、その30歳を迎えた時に「俺は社会からタレントとして必要とされていないんだ。」と諦める事にしたんです。それから人材仲介業者に登録をして、面接などを受けに行っていたのですが、「君の価値はこれくらいだね。」とかなり低額の採用条件を提示されて唖然としたものです。ここでも現実に押し潰ぶされそうになりました。ただ、そんな時でした。香港のケーブルTVの映画番組が、日本人で広東語と北京語と英語を話せるリポーターを探している情報が入って来たんです。「これはもしかしたら、行けるかもしれない!」とすぐさま応募し、それから面接に行ったら、採用してもらえることになったんです。

 

 

 

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映画【変態仮面】でのプロモーション風景

PPW:転機が来たわけですね。

素行:諦めかけていた世界でまたやれるかも知れないと思ったのでとても興奮しました。神様か仏様が最後にくれたチャンスなのかも知れないと勝手に自分でドラマチックに解釈したりもしました。とは言うもののケーブルTVのマイナーな番組だけに、あまり香港ではみなさんが観るようなチャンネルではありませんでした。ここから次のステップに行きたいと模索する日々が始まり、ようやく星光大道というオーディション番組に自分達のバンドが出演する事になったんです。22組のバンドが毎週1組ずつ削られていくという番組で、運が良かったのでしょう、自分たちは日本人という事で他のバンドと差別化が出来ていた為か、若干審査員も私たちに甘かったような気がします。「こいつら、そんなに早い段階で落としたら、あかん。視聴率稼げそうやし。」みたいな雰囲気は感じましたね。そして、なんと決勝のファイナルまで行けたんです。その時にはなんと、ファンが付いていてファンクラブもできていました。それから、バンドが他の番組に呼ばれるようにもなって出演依頼も増えて来たんです。またもや、これは行けるかもしれないと思えてきた時だったのですが、人生山あれば谷あり、意見の相違からバンドが解散して、追い打ちをかけるように韓流ブームが来たためか、韓流ブームの影響で香港映画を見る日本人が減ったらしくリポーター業も解雇されてしまいました。

 

PPW:あらら。随分痛いですね・・・。

素行:そうなんです。そこから、もう一度一人で何かトライしてみようと試行錯誤の末に始めたのが、フェイスブックとYoutubeで配信している【我は何しに香港へ?】というネットを使った自身の番組です。

 

PPW:私も知人の香港人から、「この人知っている?」と何回か聞かれた経験があるのですが、素行さんが【我は何しに香港へ?】の中で、お湯の中に卵1つだけが浮いている料理を報道するシーンで、一躍有名になられたと聞いております。

素行:そうですね。おかげ様で「あの卵の日本人」というのが香港人の中でも浸透し出しましたね。まあ、元々はローカルフードが好きな事もありますが、HKD2,500の部屋に住んでいるような生活だったので、食事と言えば茶餐庁しか行けなくて、朝飯は抜いて一番価格が安いアフタヌーンティーセットを狙って14:00~17:00の間に通っていました。当時はHKD25でスープとドリンクとご飯物がセットで出てくる店もありました。ひとつのお店を極めると他の茶餐庁にも足を運びたくなり、見た事もないメニューを試すようになると、色々な事がツボにハマるようになってきます。「何で、金払って自分で作るよりも不味いインスタントラーメンを食わなきゃあかんねん!」とか「インスタントラーメンの原型の正方形がほぐれてないやん!具もゼロやん!」などですね。そんな時にあの【お湯タマゴ】に出会ったんです。「卵は何処産か分からないし、恐らくお湯は水道水を沸騰させただけだろうし、自宅で日本産の卵を使って作った方が絶対美味いだろうし・・・、というかそんなドリンク作るかい!」と一人でボケ突っ込みをしてしまいました。そして、驚く事にあのドリンクはチョコレートドリンク卵味とか、ミルクセーキ卵味とか色々な味を選べたんです。中でも、お湯卵レモン味はこの上なく不味い。PPW読者の方にも是非一度お試し頂きたいくらい笑える不味さです。元々は粉ミルクが買えない時代に赤ちゃんや幼児に飲ませたり、老人の滋養強壮、力仕事の人たちの景気づけとして飲まれていたものらしいのですが、それが今の時代にも残っているのが面白いですね。

 

PPW:【我は何しに香港へ?】の主旨を教えてください。

素行:【我は何しに香港へ?】の主旨は、カッコよく言うと【香港への恩返し】のつもりでやらせて頂いております。若い頃から自分はどうやって有名になって目立つかという事ばかりを考えていた人間でした。それが、年齢を重ねてくると「俺は自分の事ばかり考えていて、よくよく考えると香港にはお世話になりっぱなしだ。」と思えるようになったんです。そんな折に知人のユーチューバーから【我は何しに香港へ?】のアイデアをもらい、「なるほどなぁ。」と思ったんです。これだったら、自分も番組を取れるし、香港の事も紹介できるし、日本にいる日本人にも香港の事を知ってもらえると思いました。

 

PPW:現在は色々なお仕事の依頼が来ているご様子ですね。

素行:はい。おかげ様でここ数年でだいぶ仕事が増えてきました。割と最近ですと、鈴木亮平さんとの変態仮面のプロモーションは楽しかったですね。かなり暴れさせていただきました(笑)。変態仮面のプロモーションを見た日本にいる母親から、「香港で何をやっているんだ、父も甥っ子もあきれている、日本へ帰ってこい」というメッセージがあり孤立したようで寂しくなったのを覚えています。両親も甥っ子も変態仮面を知らず、僕が香港で狂ったと思ったらしんいです(笑)。事情を説明すると、翌日母から「Keepgoing」というメッセージが届き、無事に芸能活動を続ける事が出来ております。あとは、香港のドラマでは【福岡雅治】役というありそうでない役名でお仕事を頂いたりもしました。これからも香港で芸能活動を頑張っていきたいですね。

 

 


和泉素行さんプロフィール
香港をベースに芸能活動をする日本人タレント兼モデル。香港地上波TV局の日本紹介旅番組など多数出演経験あり。広東語を活かした日本地方自治体のTV・SNSでの情報配信や地域プロモーションイベントの司会も手掛ける。その他にも「今夜も生でさだまさし香港編」や「NHKのど自慢香港大会」MC、Youは何しに日本へ?などにも出演実績あり。TOYOTA、吉野家、Ricoh、100毛のYoutubeCMにも出演したり、TVBや蘋果日 報からも取材を受け、香港ローカルをよく理解する日本人として熱い支持を得ている。現在毎週日曜に二話ずつ放映中の香港地上波TVBのドラマ《冒險王衛斯理》The Great Adventurer Wesleyの第三部《冒險王衛斯理之無名髪》篇に出演中。
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