香港ダムに命を懸けた日本企業ストーリー2

2015/02/18

●前回までのあらすじ〜
1960年代初頭の香港はそれまでに類を見ない大渇水に見舞われた。香港政庁はダムなど貯水施設を建設することを決定し、国際入札に勝ち抜いた日本の建設会社と多くの日本人がこの公共事業に関わり、香港の水不足解消に尽力した。
プロジェクトの第一期工事である下城門ダム建設の発破作業の際、労働者の一人に飛んできた岩片が直撃。病院に運び込まれたが命を落とした。現場とそれを指揮するインスペクターとの葛藤もありながらも工事は進んた…。藤沢の死を報ずる当時の地元新聞

不運にも殉職した好奇心の強い労働者の儀は、貧しい裏町には不似合いなほど立派に執り行われた。労働者災害補償保険の給付は、日本では政府の仕事だが、香港では民間の保険で行われる。西松建設はアメリカの保険会社と契約していて、この殉職者にも、規定の保険料が支払われたが、西松建設はその他に花輪や香典を贈り、社員有志も葬式やお通夜に参列した。遺族救護のために、やがてその妻を事務所の雑役婦に雇った。「自分たちを、道具としてではなく、人間として扱ってくれる!」労働者たちの間でそんな感想が浸透していった。

一方、この工事の計画を達成する為には、日曜祭日も雨による順延も何もかも無視して進めるしかなかったが、更に10ヶ月ほどの工期短縮を命ぜられた。伊藤事務長はこの強行命令に対し、それは困難だと断り、どうしてもやるとなれば機械も人員も思い切り増やさねばならないと申し入れた。
伊藤は藤沢を含む香港の幹部と相談し、必要な機械類の購入と作業員の増員等の取り纏め案を作り、本社の指示を仰いだ。ロンドンからコンサルタントの総代表者が来港した際、「とにかく早く仕上げて、香港市民の皆さんに十分に水を飲んでもらうのが何よりです。それがこの仕事を請け負ったそもそもの意義であるし、また金銭では買えない西松建設の名誉でもありますから・・・」と、会社はあっさりコンサルタント側の要求を呑んでしまった。
西松建設の事務所にも現場にもただならぬ熱気が溢れて来た。機械類も大幅に増強し、作業員も大幅に増員して、これまでは昼間だけの10時間作業であったのを、昼夜10時間交代の20時間制に切り替え突貫工事に突入した。

度重なる台風の来襲と豪雨とで工事のできない日が重なり、約束の納期よりも5ヶ月ずれた1964年12月上旬、ダムはついに規定の高さと幅に達してやっと「湛水可能」にこぎつけた。とは言っても、「完工」であって「完成」とは言えなかった。まだ仕上げの工事が数多く残っていたからだ。
藤沢が担当している取水塔の調節バルブも、その残っている仕事のうちの1つだった。取水塔の最下段の調節バルブが台風の時に流れてきた材木やゴミで傷んだので、保険会社に損傷状態を査定してもらい、その保険金で新しいバルブに買い換えるのだ。検分は1965年2月14日の朝と決まり、保険会社の査定員を連れて行く立会い役を藤沢は自ら買って出た。

取水塔の底のバルブまで査定員を案内する為に藤沢は塔の中に入り、マニラロープの縄梯子を降り始めた。塔の底には既設のジュビリー貯水池からの水がドウドウと流れている。「危険だから、気をつけてね。」後ろから来る査定員に伝えて藤沢は降りて行く。「行きますよ!」査定員はそう言って藤沢に続いて塔に入ろうとしたその時、「ブリーーブツブツッ!」とマニラ麻が切れる鈍い音がして、同時に藤沢の「ウワーーッ!」と絶叫するのが聞こえた。物の落ちる気配がし、同時にバシャッと大きな水音がしたと思うと、あとは静まり返った。

査定員は蒼くなり、現場は騒然となった。監督官事務所に上流の水を止めてもらうように依頼する者、パイプの継ぎ目を全部外す者、パイプを焼き切る者、総出でできること、考え付くこと全てに取り組んだ。気ばかり焦る中、時間が流れた。1時間ほど経ったころ、パイプに食らいついていた作業員の1人が叫んだ。「ここに足が見える。藤沢先生がいるぞッ!」「片足が見えるが、引きずり出そうとしても穴が小さく、とても無理だ。」「上手から潜って、僕が出す!」18歳くらいの少年労働者が叫んで走った。藤沢が可愛がって助手にしていた少年だった。藤沢を慕っている5、6人の中国人が後を追った。運び出された藤沢には人工呼吸が行われたが、藤沢が息を吹き返すことはなかった。

人工呼吸が行われている時、伊藤事務局長は蘇らない藤沢の手首の腕時計だけがまだ動き続けて、長い秒針がコチコチと小さな音を立てて動いているのを見た。伊藤は古い軍歌を思い出し、突然に胸が塞がり、涙が溢れ、嗚咽が込み上げた。

第3回は3月27日号に掲載予定。

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